■アクセス
〒673-0847 兵庫県明石市明石公園1−27
・「明石駅」直結0分
・「山陽明石駅」直結0分
駐車場 500台
コインロッカー
駅のコインロッカーが迷わず便利です。
JR明石駅のコインロッカーは駅構内になく、北口(明石公園・明石城側)を出て西側(左側)にあります。
明石公園エリアマップ

■キャパシティ
☆明石トーカロ球場(兵庫県立明石公園第1野球場)
収容人員は12,000人。
両翼100m、中堅122m。
内野はベンチ自由席。
外野は芝生自由席。
☆第2野球場
☆きしろスタジアム(兵庫県立明石公園陸上競技場)
スタジアムは最大20,000人の観客を収容でき、6,000人用のメインスタンド固定座席があります。
メインスタンド自由席。
芝生自由席。
☆補助競技場
☆NDK来夢・嬉しの森テニスコート
☆自転車競技場
☆ローンボウルスコート
■兵庫県立明石公園のイベント予定

明石城(あかしじょう)は日本の城です。所在地は兵庫県明石市明石公園になっています。旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれていました。別名、喜春城(きはるじょう、きしゅん-)、錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれていました。
JR明石駅北側に位置し、駅ホームより間近に望められます。縄張りは連郭梯郭混合式の平山城でありました。丘陵舌端に築かれ、本丸付近は柿本人麻呂を祀った人丸塚があったと言われており、この地は嘉吉の乱で激戦地となりました。
明石の地は、山陽道が通り、北には丹波国、但馬国への道が分かれ、淡路島、四国のルートがあり、古来より交通の要衝であった。徳川幕府が西国の外様大名の抑えの城として、姫路城についで着目しました。
現在中堀の内側は兵庫県立明石公園として整備され、日本さくら名所100選に指定されています。櫓や石垣は1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災で被害を受けたが全面修復されました。
👤明石城の歴史
1617年(元和3年)信濃松本藩主より明石藩主となった小笠原忠真は、明石城の西方、明石川河口西岸にあった船上城に入城した。譜代大名たる小笠原氏10万石の居城として城郭を建設するよう、同年に第2代・将軍徳川秀忠より築城命令された。この時の様子を『本田家記』によると、
元和六年午の春明石ニ新城を築可申旨、上意ニ而本多美濃守殿右近様御相談、地形見立言上可被成との儀ニ而美濃守明石ヘ両度御方々御見分塩見分塩屋与申処浜ニ少し入江有之ニ一所、亦明石より西かまか坂与申処高き岡あるに一処、又明石人丸山ニ一所御見立有之、御相談之上人丸山ニ極リ — 本田家記(小笠原文庫蔵)
と記されています。この文中にある「元和六年」とは「元和四年」の誤記ではないかと思われ、「本多美濃守殿」とは当時姫路城の城主であった本多忠政の事でありました。この『本田家記』によると、徳川秀忠より築城命令があり、本多忠政と小笠原忠真は相談しながら(忠政は忠真の義父にあたる)、築城から町割りまで行った。当初検討された地は三ヵ所、塩屋町(現在の神戸市垂水区塩屋町周辺)、かにが坂(現在の明石市和坂周辺)と人丸山(赤松山)が検討されたが、人丸山には大きな池があり城の防備に役立つとして人丸山に定まった。徳川秀忠は旗本の都筑為政、村上吉正、建部政長らを普請奉行として派遣し、築城費として銀一千貫を支給しあmした。
人丸山の地の利を利用し、三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材を使用し着工され、坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられています。また細川忠興書状には、忠興から忠真へ中津城天守を贈ったとあり、この部材も転用されました。元和5年(1619年)正月から作事が始まり、元和6年(1620年)正月には小笠原忠真が船上城から移り住み、同年6月から城内の建物関係の工事が開始されました。このとき天守は台石まで積まれたが、建てられませんでした。
築城と並行して城下町の町割りも実施され、当時小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したと『赤石市中記』『播磨鑑』『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』など各史書に記録されています。
苦心して明石城を築城した小笠原忠真は、1632年(寛永9年)豊前小倉藩(小倉城)に転封となった。翌1633年(寛永10年)信濃松本藩より 松平庸直(戸田氏)が7万石で入城したが、急死したため松平光重が城主となった。しかしその松平光重も1639年(寛永16年) が美濃加納藩(加納城)に転封となると、大久保忠職が7万石で入城したが、1649年(慶安2年)のわずか10年間で肥前唐津藩(唐津城)に転封しました。
その後、丹波篠山藩より松平忠国が7万石で入城、その子・松平信之と共に名君として知られ、林崎掘割の用水路や一里塚の設置、海岸の防風林の造成、そして多くの新田の開発に努めました。文化人でもあったらしく城内十景を選んでこの時に「喜春城」の名を付けました。しかしその松平信之も、1679年(延宝7年)大和郡山藩(郡山城 (大和国))に転封となると、代わりに郡山城にいた本多政利が6万石で入城しました。しかし、領内を収める事ができず1682年(天和2年) 僅か3年後、苛政を責められ陸奥岩瀬藩に1万石に減知転封となり、その後改易になりました。僅か50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わったが、本多氏転封の後、越前家の松平直明が6万石で入城し、以後明治維新まで10代、189年間親藩として松平氏の居城となりました。各城の遺材を集めて築城したせいか、老朽化が早く第2代藩主松平直常の1739年(元文4年)には大修築が行われました。最後の明石城主は松平直致で、1874年(明治7年) 廃城令により廃城となりました。
1881年(明治14年) - 神戸相生小学校(現在の湊川小学校)の建築用材とするため、北東の艮櫓が解体されました。
1883年(明治16年) - 明石町内の有志により整備され明石公園となりました。
1898年(明治31年) - 皇室の御料地となりました。
1901年(明治34年) - 巽櫓と坤櫓の修理が行われ、北西の乾櫓が解体された。また傷んでいた本丸や二の丸本丸土塀が取り壊されました。
1918年(大正7年)4月15日 - 兵庫県が御料地を借り受け県立明石公園として開園しました。
1995年(平成7年)1月17日 - 阪神・淡路大震災により石垣が崩れるなどの大きな被害を受けました。
1999年(平成11年)約5年に及ぶ修復工事が完了。2棟の櫓を曳家で移動させ土台や石垣を修復後に櫓を元の位置に戻しました。戻した後に軸組の補正や壁・屋根の修復を行いました。同時に巽櫓と坤櫓を繋ぐ塀が復元されました。
2003年(平成15年)三の丸に「武蔵の庭園」を整備し一般公開しました。
2006年(平成18年)4月6日 - 日本100名城(58番)に選定されました。
2014年(平成26年)10月8日から10月13日まで「明石城イルミネーションプロジェクト〜夜空に浮かぶ光の天守閣」が行われました。
2018年(平成30年)5月9日 NHK「歴史秘話ヒストリア309回 お城の国ニッポンを作った男 伝説の棟梁 中井正清」にて、江戸時代初期の大工頭中井正清考案の櫓建築法(統一規格を導入)を表す櫓として紹介されました。但し、現在の明石城の櫓は後世に建てられました。
2019年(平成31年):築城400年を迎えるにあたり櫓・塀の漆喰の塗り直し、樹木の伐採が行われました。
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